佐々木朗希くんが乗り越えたんや…父親との別れと家族への深い愛の話

2011年の大震災で、まだ9歳やった佐々木朗希くん。お父ちゃんとおじいちゃん・おばあちゃんを津波で亡くしてしもて…ほんま胸がギュッとなる話やわ。せやけど、そっから家族で支え合って前に進んでいく姿に、おばちゃん、ホロっときてしもた。今回はそんな朗希くん一家の深〜い絆、記事にしました。

父親と祖父母を一瞬に飲み込んだ津波

2011年3月11日――日本中が忘れられへん日やね。午後2時46分、あの大きな揺れがきて、東日本大震災が起きたんよ。

マグニチュード9.0いうて、ほんまにとんでもない地震やった。亡くなったり行方不明になった方は2万2000人以上…。想像を超える大災害やったね。

そのとき、佐々木朗希くん――まだ9歳の小さな男の子やったんよ。そんな幼いときに、お父ちゃんとおじいちゃん・おばあちゃんが津波に巻き込まれて、帰ってけぇへんようになってしもたんよ…。

大人でも気が動転するような出来事の中で、子どもやった朗希くんが見た光景…。その時の記憶は、きっと今でも心に深く残ってると思うわ。忘れたくても忘れられへん、でも、その悲しみを胸に抱えながら前に進んできたんやろね。

佐々木朗希くんが乗り越えたんや…父親との別れと家族への深い愛の話

父親の名前は(功太)

陸前高田の町ではな、お祭り言うたら絶対に欠かされへん存在やったんが、佐々木朗希くんのお父ちゃん、功太さんやねん。
町内のムードメーカーで、背ぇも高くて(180cm!)バスケもできて、ほんで野球も一緒にキャッチボールしてくれる、そらもう理想のお父ちゃんやったんよ。

男の子3人のパパで、毎日がてんやわんややったやろけど、それがまた楽しかったんやろなぁ。
特に朗希くんとは、でっかいお父ちゃんの胸めがけてボールをドーン!て投げる、親子のキャッチボールが日課やってんて。ええ話やわ…。

ほんでな、あの大震災…。
一瞬で大事な家族が津波にさらわれてもうて、朗希くん、まだ9歳やで? どんな思いやったか、想像しただけでおばちゃん涙止まらんわ…。

でもな、そんな悲しみの中でも、朗希くんの心に残ったんは「お父ちゃんとのキャッチボール」やったんよ。
野球をやめたら、お父ちゃんとの思い出までどっか行ってまいそうで…だから野球を続けることが、朗希くんにとってお父ちゃんと繋がるたったひとつの手段やったんやろなぁ。

佐々木朗希くんが乗り越えたんや…父親との別れと家族への深い愛の話

朗希くんの家族ってどんな人たち?

震災の前はな、佐々木家は7人家族やってん。
せやけど、あの東日本大震災で、お父ちゃんの功太さんと、おじいちゃんおばあちゃんを一瞬で亡くしてしもてな……残ったのは4人。

お兄ちゃんの琉希くん、弟の玲希くん、そして9歳の朗希くん。
そして、子どもたちを一人で育てることになったお母ちゃんの陽子さん。

9歳の子にしてみたら、あんな出来事に向き合うなんて、そらもう想像できへんくらいしんどかったと思うわ。
でもな、陽子さんは毎日がむしゃらに働いて、保険の営業で家計を支えてん。
子どもらに大きく育ってほしいって、それだけを願って必死に走り続けてたんやて。

ほんま、おかんの底力ってすごいわなぁ。

佐々木朗希くんが乗り越えたんや…父親との別れと家族への深い愛の話

お兄ちゃん・琉希くんのあったかい励まし

朗希くんには3つ上のお兄ちゃん、琉希(りゅうき)くんがおるんやけどな、これがまた、ほんまに頼りになるお兄ちゃんなんよ。

弟たちが寂しそうにしてたら、なんも言わんでもそっと空気読んで励ましてくれたりしてな。さりげなく背中押してくれる、そんな優しさがあったんやわ。

今では、家族のドーンとした大黒柱みたいな存在やで。
立派な社会人になって、お母ちゃんの一番の相談相手になってるんやて。

ほんま、ええ息子やわ〜。あんたもこんな息子おったら安心やろ?(笑)

弟・玲希(れいき)くんへの支え

朗希くんには4つ下の弟、玲希(れいき)くんがおってな。震災のときは、まだ5歳のちっちゃい子やってん。

そんな弟を守ろうと、9歳やった朗希くんが「オレが守ったる!」って、子どもながらに思ったんやろね。
お母ちゃんの陽子さんかて、そらもう…その姿に涙こらえるの大変やったと思うわ。

「小さいのに、しっかりしとるなぁ…」って、きっと胸がギュッとなったやろね。
おばちゃん、想像しただけで泣けてくるわ〜❤

母・陽子さんの献身

震災のあと、陽子さんの毎日はガラッと変わってしもたんよね。
男の子3人を一人で育てていくって、それこそ命がけの覚悟やったと思うわ。

住むとこも仮設住宅からの再スタート。そらもう、大変どころの話ちゃうよ。
それでも陽子さんは朝早うから頑張って、3人分のお弁当をせっせと作って、テーブルの上に並べてたって話やで。

しかも男の子3人て、みんな育ち盛りやろ?そらもう食べる食べる!
1週間でお米10キロなくなるって…おばちゃんやったら目ぇまわるわ🤣

そんな中でも、陽子さんは一度も「しんどい」って言わんと、笑顔で子どもたち守ってはったんやろね。
ほんま、尊敬しかあらへんわ👏

佐々木朗希くんが乗り越えたんや…父親との別れと家族への深い愛の話

故郷への思い、そして父ちゃんへの感謝

2021年雑誌のインタビューに佐々木朗希選手は答えています。

 「10年という節目ですけど、僕にとっては毎年忘れることはなかったので。特に10年だから、何か変わるわけじゃないんですけど、3月11日は毎年、特別な日だと思っています」

https://www.asahi.com/articles/ASP396K5GP38UTQP01Y.html

あの日、朗希くんはまだ小学3年生。
地震が起こったときは学校におって、先生たちと一緒に近くの高台まで避難したんやて。
でもな…津波が全部をさらってしもて、自分の家も、父ちゃんとおじいちゃん・おばあちゃんも…ほんまに一瞬やったんよね。

そのあと、避難所での生活が始まって、しばらくは老人ホームの一室に身を寄せてたんやと。
ほんで、お母ちゃんの親戚を頼って、隣町の大船渡に引っ越したんよ。

「僕自身、ネガティブなんで…」て、朗希くん自分で言うてるけどな、そら9歳であんな体験したら、泣いてもええし、沈んでもしゃーないで…。

佐々木朗希くんが乗り越えたんや…父親との別れと家族への深い愛の話

でも、そんな中で野球と出会ってん。
「野球してるときが一番楽しかった。夢中になれたから、つらい時期も頑張れた」って、ほんまに野球が心の支えになってくれたんやろね。

「もし父ちゃんたちが生きてたら、きっとワシの選んだ道を否定せず、背中押してくれてたと思います」
そう言うてる朗希くんの顔見てたらな、おばちゃん、涙出てくるわ…。

今ではプロ野球選手になって、お給料ももらえるようになってな、
「父ちゃんはほんまに大変やったんやなって、今になってわかる。めっちゃ尊敬してます」って。

あかん、こんなん聞かされたら…
おばちゃん、涙腺ガバガバやわ😭
ほんま、父ちゃん天国でめっちゃ喜んでるで、きっと。

まとめ

佐々木朗希くんは、あの東日本大震災で、まだ9歳やったときにお父ちゃんとおじいちゃん・おばあちゃんを津波で亡くしてしもたんよ。ほんまに言葉にならんようなつらい経験を乗り越えて、今の立派な姿があるんやねぇ。

野球は、亡くなったお父ちゃんとの大事な繋がり。ボールを投げるたび、きっと空の上のお父ちゃんにも届いてるんやと思うわ。

そして朗希くんが言うには、「明日どうなるかなんて誰にもわからんから、今日を一生懸命生きなアカンねん」って。うんうん、おばちゃんもそれ聞いて、胸にジーンときたわ。

私はな、もうめちゃくちゃ大谷翔平選手を応援してる――というか、全力で見守ってる保護者みたいなおばちゃんなんですわ。
あの子、ほんまようできた子やで。うちの推し、世界一。

でな、我が家には同じ年頃の息子もおりましてね。
その子も、ついでにうちのダンナも、昔は野球してたんですわ。
でもねぇ…その**“到達レベル”の差がエグい!!もう、天と地どころか天と床下ぐらいの差!**
もう、あの子らのバットには奇跡が宿らんかったんよ…。

でもでも!うちの息子は今はIT関連の会社でがんばって働いててな、
なんとこのブログ、作ったの息子やねん!どうや、間接的に翔平ちゃんとつながってる感じせえへん!?(せぇへんか)

そしてな、大谷翔平選手の話題は、我が家では軽く“禁句”扱いやねん。
ダンナと息子、どっちも目が泳ぐから。哀愁すごいで。

せやけどな、ブログは別や!ここは私の楽園や!
キーボード叩く指にも愛情こもっとるで?(ほんまに)

というわけで、どうでもええことから翔平ちゃんのすごさまで、おばちゃん目線でぎょうさん語っていきますさかいに、気が向いたら遊びに来てな〜!お茶くらい出したい気持ちで待ってまっせ〜!
おすすめの記事